おちゃにっき

おちゃのにっきです

【おちゃ的読書論】読書の目的

 

読書について考えさせられる機会があったので、まとめておきます。

 

読書の目的

なんのためにこの本を読むのか?」が一番重要です。これを自覚しておくことによって、散漫と読み、途中で飽きて投げ出す、というありがちな読書のやり方が変化します。(行動というよりもむしろ、意識の面で。)

 

例を上げてみましょう。

 

  1. 吉田篤弘の小説『電氣ホテル』を読むのは、今まで読んできた中で、この作家の作品が好きだとわかったからだ。
  2. 辺見庸『もの食うひとびと』を読むのは、食ということについて考えてみたく思い、その参考にするためだ。
  3. 九鬼周造の世界』を読むのは、卒論を書くために必要であり、そのテーマと関連しているからだ。
  4. 飯島晴子の句集『花木集』を読むのは、まず飯島晴子がどんな句を作るの知り、また楽しみ、あるいは自分の作品に活かすためだ。

 

こうして一つ一つの本に対して、自分のスタンスを決めていきます。するとどうなるか。

 

読み方の変化

先程の例と同じ番号で、それぞれの帰結を見てみましょう。

 

  1. 小説の世界にのめり込めたら、頭から尻尾まで読む。もしつまらないと感じたら、どこがつまらなかったを少し考えてから、一度読むのをやめる。(趣味の読書)
  2. 頭から読んでみても良いし、興味のあるところから読んでみても良い。とにかく自分が知りたいと思うことを知れたらよいので、ある程度わかったなというところで読書をやめる。(興味の読書)
  3. 全体をぱらぱらめくって、テーマと関連するところを拾い読みする。重要だと感じるところほどじっくり読む。重要な箇所はチェックを入れる。多少読むのにつらいときがあっても、卒論の完成のためには仕方ないので、耐えて読んでみる。やめるにしても、あとから手にとったときわかるように整理しておく。(興味かつ手段の読書)
  4. いくつか句を拾い読みし、面白いと感じたらゆっくり頭から読んでみる。良いと思った句にはチェックを入れる。つまらないと感じたら、一旦置いておく。(趣味かつ手段の読書)

 

読書を嫌いにならないためには、「引き際をわきまえる」ことが重要だと感じます。

 

私の場合、頭から尻尾まで舐めるように読む本は意外と少なく、そうした本もたいていは文芸作品です。

 

目的が達成されればそれで良い、と割り切って本を読めること。こういうスタイルは強いです。

 

本を読むということ自体が目的化するのもまあ良いのですが、趣味の読書の例のように、さらにその裏に潜む目的が必ずあるはずです。というか、「読書を楽しむ」ことと「その本を楽しむ」ことと「その本を読みたいと思った初動の理由」、これらをすべて分けて考えるのです。

 

それを自覚しておけば、例えば趣味の読書なら、楽しめないのに無理して読む意味は全く無いので、楽しくなければやめるという判断がすぐに下せ、次の本に移れるようになります。

 

また、手段として絶対に読まなければならない読書の場合でも、何らかの興味や趣味と関連しなければ読み続けるのは本当に辛いだろうな、ということもわかります。

 

趣味は固定化していく傾向があるかもしれませんが、興味は自分で広げる余地が大いにあるので、もし読むことが必要だけど興味がなくてつらいという場合には、関連する簡単な本などを読んで、基本的な知識を備えた上で自分自身の中の興味を引き出すことが、本を読み通す原動力になるのだろうと思います。

 

※頭から最後まで本を読むことを否定するわけではありません。面白い本を隅々まで読みたいと思うのは当たり前のことです。問題は、世の中苦もなく読み通せるほどの面白い本だらけではない、というところにあります。

 

今回はこの辺で。また機会があったら上げますが、続く気がしません。おわり。