おちゃにっき

おちゃのにっきです

「コミュニケーション能力」を考える

思うに、コミュニケーション能力と世間で呼ばれているものは、かなり曖昧な概念である。それにも関わらず、便利に使われてしまっているケースが多い。そのために悲しい行き違いが日々(特に、就活戦線に身を置く者としては企業と学生との間で)生まれているように感じる。

ここでサラッとビジネス書などを引用してきて、様々なコミュニケーション能力の形を示すのが大人っぽく読みやすい、かつアフィリエイト収入にもなるという万々歳なやり口なのは承知の上で、敢えてそういう方法を取らずに、単語としての「コミュニケーション」、「能力」を掘り下げていく方向に進んでみたい。

〈このあたりまでで、だいたいおわかりかとは思うが、今後もこのブログはこういった回りくどい手法を得意にしていくことになるだろう。それは偏に私の怠慢の故である。社会にあるものを使えるなら使うべきところ、探す努力を怠ってわざわざ回り道をするのが私の悪い癖である。あとこういった本筋から離れた自分語りも、自然と多くなるであろうから、注意されたい。〉

閑話休題。「コミュニケーション能力」について考えるのであった。蓋し人間とは「ポリス的動物」とアリストテレスも言ったくらいであるから、遠いギリシャの昔からロゴス、コミュニケーション使って生きてきたことは定かだ。それが現代においても「稼ぐ力」、それっぽく言えば「生き抜く力」として企業や官公庁などから求められているのは、当然といえば当然である。

しかしながら、コミュニケーションそのものを「成す能わざる」人間というのは、おそらく存在しない。たとえば全く言語の通じない海外に行ってみたと仮定しようーーそこはタガログ語圏かもしれないし、スワヒリ語圏であるかもしれないーー。そのような言語の通じない環境ですら、相手が人間でありさえすれば、おそらくジェスチャーで何らかの意思表示をすることは可能であろう。自分を指差し、走る動作をしてみせ、地図を開き、ある場所を指差すだけで、おそらく相手は「ああ、ここへ行きたいのだな」ということを了解するであろう。(なんとなれば、必死さがより伝わって、普通にタガログ語で話しかけるよりも、道案内をしてくれる確率は高まるかもしれない。)

そんなふうに、コミュニケーション能力を本来人間に備わっている能力だと考えれば、わざわざあらゆる組織が「コミュニケーション能力」を要求するのはおかしい。とでも結論づけようものなら、それはもうとても痛々しい学生の愚痴にしかならないので、もう少し考えてーーというか、意図的な誤読をするのを避けてーー、真面目に取り組んでみよう。

組織の「われわれはコミュニケーション能力のある人材を求めています。」というメッセージは、やや言葉足らずである。実際のところ、「われわれは高いコミュニケーション能力を持つ人材を求めています。」ということが言いたいのであろう。では今度は「高いコミュニケーション能力」とはなにか、という問を立てざるを得ない。これ答えることは、実は容易ではない。さまざまな角度から切り込んでゆけそうだ、以下に思いついた順から、手法を並べてみたい。

1)「高い」ということを、「コミュニケーション」の目的実現性の高さとして措定する。

1-1)目的=「意思伝達力」

1-2)目的=「信頼関係構築力」

1-3)目的=etc...

2)「高い」ということを、「組織内部でのコミュニケーションの波長・やり方にマッチしている」と捉える。

3)逆に「低い/低劣なコミュニケーション能力」というもののあり方を考えてみる。

等、やり方は様々存在するのだが、全部に取り掛かっていると着地点を見失いそうである。個人的には、3)を推し進めていくのが作業としては面白そうに感じる。しかし、1)と2)の違いに注目することのほうがより有意義であろう。(「高いコミュニケーション能力」ということについて、この他の視点を持たれた方は、ぜひご意見をお寄せいただきたい。)

2)は、一見すると1-2)の「信頼関係構築力」に回収されそうである。しかしその概念的内容の実際を見れば、そこにある違いは明らかであろう。2)は「すでにそれとしてある風土」との「一致度」という尺度をもって「高さ」を測るものであり、言うなれば0%から100%の幅において考えられるのに対し、単に能力として捉えられている1-2)は0から始まって高ければ高いほど際限なく高まるものである。より端的に言うと、2)における「コミュニケーション能力」という言葉の使われ方は、もはや「能力」を指し示しているのではなく、「わが社の風土に合った人材」ということの言い換えとなっているのである。

もちろん、「わが社の風土に合った人材」を求めることはなにも悪いことではないし、実際就活生と企業の、あるいはもっと広く人材と組織のミスマッチを防ぐためには重要な視点である。しかしながら、これが時として「コミュニケーション能力」というやや歪んだ形で伝えられている可能性が、実際の社会を見ていると散見されている。私が特に示したかったのは、それだけ「コミュニケーション能力」という言葉が多義的で、それ自体の示す「伝達力」を阻害するほどの怪物的な概念になっているということである。

組織運営において人材採用や育成を担当されている方、またそうでない方も、今一度自分がどのような意図をもって、曖昧な「コミュニケーション能力」という言葉を使っているのか、見直していただけるととても嬉しい。ヤワな終わり方になってしまうかもしれないが、ここらあたりで筆を擱く。

おまけ

「低いコミュニケーション能力」をイメージする作業もちょっとだけしてみよう。

「あ」

「まるいw」